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考察:音楽・教育 - 2022年7月12日

子供に音楽をさせたい親に読んでもらいたい話

先週の土曜日、公民館でバイオリンの全体練習を行いました。まだ始まったばかりなので出来ることは限定的ですが、少しずつ前進していきたいです。

この楽団の目的は、過去の記事でもお伝えしたようにピアノではできない音楽の楽しみを経験してもらうことです。そして、より主体的に能動的に生徒さんたちが音楽を探求していくことを目指していきます。

音楽が身につく環境

そもそも音楽を身につけるということは、知的好奇心探究心行動力があればピアノ教室に通わなくとも自分で獲得していくことができます。特にインターネットが普及して情報が溢れかえっている昨今はなおさらです。

知的好奇心は、音楽に感動することです。沢山の音楽を聴いて好きな歌を歌いたくなる衝動です。

探究心は、もっと良い音楽を求めることです。例えば好きなミュージシャンがいたら、その人は今までどんな曲を演奏してきたのだろう?どんな音楽を聴いてきたのだろう?そのミュージシャンが好きだった人はどんな音楽に影響を受けたのだろう?と掘り下げていけばキリがありません。

行動力は知的好奇心と探究心に駆られて動き出すことです。歌を覚えたい、演奏したいという欲求は、自分が受けた感動を再現したい欲求です。最近わかってきたのですが、歌を一曲覚えるって、なかなかエネルギーのいる作業です。楽器の演奏となればもっとハードルは上がります。でも、音楽に感動してできるようになりたい欲求が高まれば、楽器の操作も楽譜の解読もなんら苦になりません。行動する人は音楽教室が課題を出さなくても自分で勝手に進めていくのです。

ピアノが難しくなる原因

この知的好奇心、探究心、行動力にブレーキをかけてしまうものがあります。

これまでピアノ調律師、ピアノ教室を運営する者として、夢いっぱいでピアノ教室に入りながら、やめていく人をたくさん見てきました。結論から申し上げますと、ピアノが続かない原因は個人の能力よりも取り巻く環境が原因だと考えています。

①アニメとゲーム

一つは過度なアニメやゲームです。アニメやゲームは、画面の向こう側でキャラクターなどが動いてくれるので、それを目で追っていくだけで楽しめます。体を動かして遊んだり、絵を描いたり何かを作るような創意工夫もなく楽な娯楽です。

昔はテレビでアニメなどを観ていても、時間が来れば自然に終わるものでしたが、現代は一つ終わっても次はこれ、次はあれなどと際限がありません。アニメや動画を見ているようで、実は拘束されているようなものなのです。スマートフォンを使っているようで実はスマートフォンに使われてしまっている、ともいえます。

最近のゲームはネットワークでスケールが大きかったり、Eスポーツなど職業になっているところもありますが、基本は人が作ったプログラムの中だけのルールで動くアクティビティなので、それよりは何かを創作してSNSに投稿して世間の反応を見るなどした方がもっと大きなチャレンジにもなります。

追記2023年1月23日:
下の動画ではゲームよりテレビの方が悪影響があるとしています。参考までにご覧ください(7分35秒あたり)。

②学校教育

学校教育が子どもたちの知的好奇心、探究心、行動力を刈り取っています。ここからは結構刺激的な話になるのでご了承ください。

本来子供は自分がやりたいことしかやらない生き物なので、主体的で学びに意欲的です。小さい子は名前の書き方を覚えたら、喜んでどこにでも何回でも書き続けます。漢字で書けるようになったときもそうです。子供は何でも手に取って触りたい、目の前に現れた物に興味がいっぱいです。となりのトトロのメイちゃんが、小さなトトロが歩いてるのを見つけて、夢中になって追いかけるシーンを多くの人が自分の子供にも同じ行動を見ていると思います。

ではなぜ学校は教育が子供の知的好奇心、探究心、行動力にブレーキをかけてしまうのでしょうか?それは学校の先生や職員などのせいではなく、学校のシステムそのものがもう時代にそぐわないのが原因なのです。

一方通行の指導ではなく検証する機会を

小学校に入ったら4月から3月生まれの子たちが一つのクラスになって、担任の先生の指導を受けます。でも知識や技術を得るのにその情報源が学校という塀の中の大人だけというのは原始的で狭いしインターネット時代の今では古い手法です。先生と相性が合わないかもしれないし、教科によって得手不得手などの個人差があるでしょうし。ずっと座ってられない子だっているし、十人十色の子供たちを一人の担任がまとめて同じように同じことを学習させようなんて無理があります。それよりも、いろんなところでいろんな話を聞く方が見聞を広まります。

ある中学生が「地理の授業についていけない」と言ったことがあり、話を聞いていると単に教科書に書いてあることを順番に板書してノートに写していくという授業だったので、Google EarthとWikipediaや旅人系のYouTuberの動画を見て世界を旅してみたら、と勧めたらとても面白がっていました。世界を知るには教室の黒板よりももっとわかりやすい教材があるのです。

そもそも日本の教育は検証することを教えません。「先生の言うことに納得できるか、他の先生や大人に意見を聞いて」という先生を見たことがありません。検証するとは、悪く言えば疑うことでもありますが、聞いた話を別の角度から見ることができるし、検証を繰り返すことで自分が取り入れなかった話を他人が受け入れているのを見れば多様性を知るきっかけになります。ピアノの生徒さんの中にも「先生を変えたくない」という人は多いですが、変化を拒むということはやってもらうことに慣れてしまい自ら開拓することができなくなってしまっているのです。

逆に過信することが危険を招くこともあります。1990年代、アナウンサーの逸見政孝さんは病気を患い主治医を信頼して治療に当たっていましたが、病状が芳しくなかったためもう一度手術を受けるときに「先生、執刀してくださいますね」と確認したところ「丁度その頃、僕は夏休みに入っているんだよなあ」との答えが返ってきたときに初めて不信になり他の病院で診てもらったところ「なんでこんなになるまで放っていたのですか!?」と怒られたそうです(WikiPediaより抜粋)。この後、医療の分野でセカンドオピニオンが浸透していきました。

先生は一人である必要はないし、知識を分けてくれる人は世界中に星の数ほどいます。ここ数年教員不足が深刻になっているのといわれますが、テクノロジーを駆使すれば先生の負担は減らせます。AIで数学を学習させることもできるし、動画で授業を受けることもできる。これらは一部の公立の学校で既に始まっていることです。自動化できるものは自動化して、教員は生徒を統率せず個々の心のケアに努めたり快適な学校生活を送らせてあげることに力を入れることも可能なのです。

先生の言うことを聞く子が良い子、言うことを聞かずに座ってられない子などは障害というレッテルまで貼られてしまう今の学校の仕組みは、子供たちに保証されなければいけない自由を奪ってしまい、将来を担う人材の育成を阻害しかねません。もう一つ、学校では机に座って授業を受けますが、最近の理学療法士さんの話では15分おきに立ったり座ったりするのがいいともいうし、生徒の体の大きさはみんな違うのに、みんな同じサイズの机と椅子に座らせるのは将来腰痛を引き起こす原因になりかねないのだそうです。そうすると、座ってられれない子は自然と身を守る術を持っている、という考え方もできますね。

学校のあれこれ・・・それ本当ですか?

例えば、子供が朝なかなか起きないのを親が「早く起きないと遅刻するよ!」と怒鳴って子供がぐずっているとしましょう。我々親世代にとっては遅刻してはいけないという考えは当然ですが、見方を変えると学校の一方的な仕組みによって家庭に不幸が起こっている、とも考えられます。全員が朝決まった時間に登校するって絶対必要でしょうか。

海外には、子供が7歳になって数ヶ月以内に入学し、決められたカリキュラムを終えたら卒業、という制度を取り入れている国もあるし、一斉授業を減らして自由に学習できるイエナプランや、自分で課題を見つけるプロジェクト学習など、新しく楽しい学びの環境がたくさん生まれてます。

そもそも学校とは産業革命時代に工場で大量生産するために同じ作業ができる人材を育成するために生まれたと言われます。また、兵隊を作るためとも言われます。昔は情報が少なかったから統制できましたが、今はインターネットによって多様化されてそれが難しくなりました。

先の「学校の仕組みによって家庭に不幸が」という考えは、これまでならモンスターペアレントです。でも今はみんなモンペでいいと思うんです。みんなそれぞれのライフスタイルが尊重されるべきです。土日仕事が休みではない家庭なら、親の仕事に合わせて子供の学校は平日が休みだっていい。もっと言えば、学校は行きたいときに、または最低限全員が集合するべきときだけ行けばいい。もっとも重要視するべき教育の目標は「社会に生きる市民として,職業生活,市民生活,文化生活などを充実して過ごせるような力を育むこと(文部科学省抜粋)」で、皆勤でも宿題をきっちりすることでもありません。文科省は定義しているのに、現場が一番大切な目的を見失っているのです。

がんじがらめな子供たち

話を現代の昔ながらの学校に戻すと、一人の担任の言うことを聞いて、一日の行動が決められていて、帰宅後も学校に決められた課題をやらされて、行動をどんどん制限されている子供たちは、だいたい三年生から四年生くらいで「どうせダメって言われるから」というふうに諦めて主体性を失っていきます。あえて厳しい言葉を使いますが、これは明らかに洗脳です。

よく「年頃だから恥ずかしがりになる」とか言いますがそれは間違いです。統制され続けて主体性を失った子は、本人の意志とは無関係に大人の顔色を伺って当たり障りのない回答や行動を探します。そうやってダメ出しされないように身を守る術を身につけてしまっているのです。日本の子は自己肯定感が低いと言われますが当然です。自己肯定感を奪う洗脳をしているのですから。みんなそれぞれだから誰も間違いでなくてもいいのに、この考えはまだまだ少数派です。

ある吹奏楽部のリハーサルを横で見ていたことがあって、そこで先生がパンパンパン!と手を叩いて演奏を止め「お前ら、もっと楽しそうにやれよ!」と一喝していました。そのときに一生懸命笑顔を取りつくろって演奏したり体を動かしている子供たちは内心おびえている様にも見えたし、なんだか悲しくなりました。

明治型の教育の行く末

産業革命時代に生まれた教育法は日本には明治時代に富国強兵策の一環として取り込まれ、現代も受け継がれています。昭和どころか明治なのです。長い年月をかけてその教育手法にひずみが生じ始めました。望んでいるのか、自分に合っているのかもわからないことをやらされ続けると今度は文句を言うようになります。今、日本中がそうです。学校が悪い、会社が悪い、政治が悪い…。ずっと与えられてやらされてきたから主体的に動くことができず、誰かがなんとかしてくれるのを待つマインドが蔓延しています。

このような教育が長年続いてきたのも手伝ってか、日本はこれから先とても辛い未来が待っています。現在では30〜40年前のような栄華を誇った日本は見る影もありません。かつて世界の企業ランキングトップクラスを占めていた日本企業の多くがその姿を消し、大学ランキングは東京大学ですら世界では35位です(アジア最高位は北京大学の16位)

余談ですが、ある方のお子さんが日本人なら誰でも知っている大学に進学されて、入学式の説明会で就職課の職員が「うちの大学に入ったから卒業後は安泰とは思わないでください」と言われたそうで、実際に学部によっては就職率が6割程度でした。既に高学歴で優良企業に就職というシナリオは通用しなくなり、高学歴就職難民という言葉もあります。そのくらい学校教育の価値が根本からひっくり返ろうとしているのです。

おまけに人口統計では2050年ごろに少子高齢化の割合がピークとなり、今の子供たちが三十〜四十代の頃にのしかかる負担の大きさは計り知れません。外国人を受け入れて人員不足を賄おうとして、今沖縄県のコンビニの店員さんはほとんど外国人です。今は日本人が外国人を雇用していますが、受け身の教育で育った日本人とガツガツ攻める外国人・・・将来経営者は外国人で従業員が日本人と逆転してしまうのではないかと心配しています。

大人の我々が今出来ることは、将来社会がどうなっても子供たちが強く生きていくための基礎づくりのアシストなのです。「アシスト」です。あくまで身につけるのは子供なので大人がやって上げるのではなくできる環境を作ってあげられたらと思います。

楽器演奏の力!

少し強引に思われるかもしれませんが、ピアノやバイオリンを弾ける、音楽ができるという技術は生活していくうえでいろんな分野に役に立つと考えています。アメリカのニューヨークタイムズ紙の記事に「音楽は成功の鍵となるか?」という記事があり、「社会で成功していると言われる政治家や実業家の多くは楽器を演奏できる」と書かれています。楽器の演奏の習得はできないことをできるようにする問題解決のための工夫が培われます。やらされる学習では苦行になってしまいますが、そこに感動とやってみたい願望があって行動があればとても楽しいアクティビティになります。幼児が字を覚えて何度も繰り返して書くように。そんな音楽教室になりたいと思います。

目指したい音楽教室

バイオリンアンサンブルの北前楽団(仮称)では、前回の合同練習で「演奏したい曲を探して」という宿題を出しました。そしてそれは自分だけではなく家族もおじいちゃんおばあちゃんも喜ぶような曲を探して欲しい、としました。バイオリンはピアノよりも早く2オクターブの音域を操作できるようになるので、ピアノでは難しいメロディもバイオリンではさほどでもなかったりします(でもバイオリンで美しい一音を出す技術はピアノより奥深いです)。

学力とは学ぶ力、知識や技術を獲得する力であって、学校や大人の都合で与えられたものをどれだけ吸収できたかを測る数値ではあってはいけません。子供たちに主体的に音楽を作ってもらい、自分たちのプログラムで発信していきながら自己肯定感を高め主体的に学び活動する人間になって、将来を強く生きていく技術を身につけてもらいたいと願っています。

参考資料

今回の話は私がアメリカに留学した経験から得たものと疑問に思っていたこと、そしてわだかまりを氷解させてくれた素晴らしい方々の言葉から得たものです。 以下に参考文献と動画をご紹介させていただきます。

  • 学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革 ― 工藤 勇一
    (宿題、定期テスト、固定担任などをやめた公立中学校の改革を紹介しています。)
  • 工藤勇一先生の講演動画
    上記の書籍の方が詳しいですが、実際に工藤先生が実現したことを講演で紹介しています。
    前半 / 後半
  • 校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール ~定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた 西郷孝彦
    (2020年に見学に行きました。楽しそうな生徒たち、環境でこんなに変わるんだと驚きました。)
  • 「学校」をつくり直す 苫野一徳
    (国内外の教育にフォーカスしながら、そもそも教育とは何かを問いかけ、これからの教育について提案しています。苫野先生の「自由の相互承認」は究極の理念です。2020年に会いに行きました。)
  • 子どもが面白がる学校を創る 平川理恵・広島県教育長の公立校改革 上阪 徹
    (民間から起用された教育長さんの教育改革です。公立の学校でイエナプランを導入するなど、革新的な改革を進めています。)
  • すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~ (光文社新書) 堀江 貴文
    (言葉を選ばないバッサリ感に嫌悪する方もいるかもしれませんが、私が読んだ当時は「もしかして」と思っていたことを全て表現してくれた本でした。)
  • 頭のいいバカはもういらない センター試験と偏差値序列社会の終焉 (AERA dot.)

最後に

私自身、最初から学校を疑っていたわけではありません。現在高校生の長女が小学校に入学したときは学校は大切だし子供の生活の中心だと思っていました。ところが次女が小二で長女が小六の夏休み、長女より次女の方が宿題が多いと知ったときに初めて疑問を感じました。次女に「お父さんが先生に説明するから宿題はできなくてもいい」と言いましたが「怒られるから」という理由で泣く泣くこなす次女が不憫でした。長女が中学に上がったとき、入学式に履いていったワンポイントの靴下が認められず式場に入場させてもらえなかったときに、なんで靴下のワンポイントで生徒を区別するのか理解できませんでした。そこから学校というものを調べるようになりました。調べるうちに、教員のみなさんもとても苦しい環境で奮闘していることも知り、場合によっては保護者が学校に丸投げにしていることも問題の一部であることも承知の上で、今回は子供第一の視点で書かせていただきました。あくまで音楽教室で音楽を身に付けることを重要視したため、表現が人によっては不適切ととらえられるかもしれませんが、ご理解いただけるとありがたいです。

体験レッスン、見学、随時受付しています。

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